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日本のリンキング活動

21世紀に入って日本では先行きの不透明感が強まり、不安感が先行しています。1970年代、1980年代の目覚しい経済成長をとげたときのような勢いはおそらく二度と訪れないのかもしれません。格差も拡大し1990年代には見られなかった高齢者の孤独死やホームレスの人たちも増え始めています。

 経済的に厳しさが増えている世の中で政府には本当の解決は期待できないとの思いが多くの人の心に広がっています。そしてこうした厳しい状況が続くからこそ、人々は他の人への思いやりと人のつながりの大切さに改めて気づき始めたのではないでしょうか。
厳しい経済環境が続くからこそ、お互いが助け合うことで地域社会の問題をなんとなしようという新しい意識が次第に広がり始めています。こうした社会の新しい芽を大事に育てていくことが、日本を再生に向かわせる重要な一歩といえます。

個人レベルのつながりを大切にするリンキングは単に海外に目を向けることだけではありません。国の内外を問わず人と人とのつながりを深めるためのツールがリンキングなのです。

日本の各地で行なわれているリンキング活動を紹介する第五回目として、NPO法人ACTION代表の横田宗 さんにエッセイを寄稿いただきました。



人とのつながりでこども達の可能性を広げる

NPO法人ACTION代表
横田宗


プロフィール
1976年生。東京都出身。高校3年の時にピナトゥボ火山の噴火で被災した孤児院の存在を知り、単身で訪問する。フィリピンの方達に恩返しがしたいと思い、1994年にACTIONを設立。大学在学時も孤児院支援を続け、インドやルーマニアの孤児院で活動。途中休学し、内戦後のルワンダやケニヤ、ウガンダ、ザイール等で戦災孤児支援等の活動を実施。1999年、大学4年生の秋にフィリピン事務局と日本事務局を開設。現在は代表として全事業の統括。国内では小・中・高校の教員とともに国際理解の授業作りを進める他、学校・行政等で講師を務める。また、極真会館フィリピン支部マグサイサイ道場責任者として、武道を通じての青少年育成を行う。2010年4月に、IT企業とのパート−ナーシップでエコブランド「エコミスモ」を立ち上げ、新しいNGOのあり方を模索中。
  ・平成11年度中田厚仁基金褒章受章
  ・平成15年度日本財団賞受賞
  ・国際ロータリー3790地区 メトロオロンガポロータリークラブ会長(2008-2009)


活動の原点は恩返し

私がフィリピンを訪れたのは高校3年生のとき。色々な大人と出会いたい、外の世界を見てみたいと好奇心に溢れていた私は、ピナトゥボ火山の噴火で被災した孤児院の存在を知り、何か出来る事があればと思い単身フィリピンへ向かった。

空港からの行き方も良くわからず、人に聞きながら孤児院に辿り着くまで6時間。見ず知らずの私をこども達や孤児院のスタッフは暖かく受け入れてくれた。何か出来る事があればと思って現地に向かったものの、言葉も出来ず技術もない私は1ヶ月の滞在中、フィリピンの方たちにお世話になりっぱなしであった。日本に帰国後、お世話になった分は恩返しをしたいと思い「アクション」を立ち上げた。

ボランティアや国際協力という意識はなく、ただ自分に何か出来る事をと考えてはじめたが、団体設立や運営に関しての知識もなく、仲間をどうやって集めて良いかもわからなかった。そんな中、武蔵野市国際交流協会やメディアの方たちに応援して頂き次第に仲間が集まってきた。個人の想いが、色々な方たちとのつながりによって社会へと広がり始めたのである。

アクションの活動

こども達が本来持っている可能性を実際に社会の中で活かせる環境作りをする事を目的に、1994年よりアクションはフィリピンにおいて主に児童福祉の分野で活動を実施している。現地に3カ所(マニラ、オロンガポ市、サンバレス州)と東京の武蔵野市に事務所を構え、孤児院の自給自足支援やストリートチルドレンに対する奨学金、盲ろう学校のサポートやヘルスセンターや幼稚園の建設、通学路の整備や井戸設置等の小規模インフラ整備を実施している。

国際協力に関心を持ってもらう目的で海外ボランティアプログラムにも力を入れている。毎年200名ほどの大学生を中心とした若者がワークキャンプやスタディツアーに参加をしており延べ参加人数は2,500名を数える。日本国内ではアジア雑貨のチャリティショップを商店街に構えるほか、武蔵野市教育委員会と協働し小学生向けの国際理解プログラムを実施、児童養護施設へのボランティア派遣も実施している。また様々な企業と協働したプロジェクト実施にも力を入れている。

フィリピンでの経験を日本に地域に還元

アクションに限らず日本のNGOはその活動費のほとんどを日本国内の寄付や助成金、会費から得ている。それらの財源で現地での活動を実施しているが、そのフィードバックが報告会の開催や報告書作成のみで良いのかという疑問を持ってきた。

もっと違う形でこれまでお世話になってきた支援者の方々や日本の社会に何かアクションならではの恩返しをしたいと考え、その一環として小中高校で授業を実施している。通常の国際理解の授業だけではなく、学校自体の学年目標や生活目標を達成する為にアクションとしてどのようなサポートが出来るのかを考える。

例えば「地域とつながりのある学校」というテーマがあるとき、フィリピンと日本の生徒にビデオカメラを渡し、「地域」というテーマで撮影をしてもらう。これまでいくつかの学校で実施したのだが、面白いことに日本の生徒が撮影する「地域」というテーマのビデオに映っているものはほとんど建物。

市役所や学校、デパートなどが中心。それに比べて、フィリピンの生徒が撮影したものに映っているのは「人」。お店の人のインタビューや友達のお母さん。町を行く人達に声をかけてメッセージをもらったりしていた。その映像を見た日本の生徒は単純に「フィリピンのほうが面白い!」と思う。そして、フィリピンの生徒達にとって地域は「人」、自分達にとっては「建物」だった事に気づく。

生徒達は再度撮影をしたいと言い町に出る。次に撮影するのはフィリピンの生徒達と同じく「人」だ。商店街や、友達の家、コミュニティセンター等でインタビューをする。それがきっかけで、フィリピンとのやり取りを地域で発表した事もあった。

この事例のように、途上国の実情や国際協力に対することをこども達に伝えていくだけではなく、途上国での経験やネットワークを活かして日本の社会にも貢献できるのではないかと考えている。

日本の様々な資源を発掘!

海外で活動をするNGOにとって、日本は会員や寄付などの活動資金を得る場所という捉えかたが一般的だ。日本で集めた資金を使い途上国でプロジェクトを実施する。当会も日本で会員や寄付の募集、助成金等を活用してプロジェクトを実施している。

しかし、学校での活動や地域でのチャリティショップでの活動を通して日本の社会の中にフィリピンに活かせる多くの資源がある事に気が付いた。その中でいくつかの企業と協働でプロジェクトを実施している。

3年前に地元のクリーニング会社にクリーニング機材をフィリピンへ輸送していただき、現地に工場を設置。当会がサポートしている孤児院出身の男性が日本の工場で研修を受け技術を学び、その技術や機材を活かして地元のホテルなどのリネンを扱っている。孤児院出身のこども達の働く場となるとともに、利益を孤児院の運営費に充てている。会社の社長にも定期的に現地に来て頂き、機材の点検や技術指導も実施、来年からは地方行政と連携をして、日本への研修生を送り出す予定だ。

クリーニング以外にもフィリピンに本社を置く日系IT企業と提携してのオンラインによるフィリピン語レッスンや、日本のネイルサロンとの協働による「チャリティネイル」を実施している。またフィリピンの学校とプロジェクトを実施する中で保護者や先生方から「どうやってこども達に規律を身に付けさせれば良いのか」という言葉を良く聞くようになった。学校からは教室を増築して欲しい、給食プログラムを実施して欲しいというニーズは良く聞かれる。しかし、物質的なニーズだけではなくこどもの情操面や生活態度に対するニーズもあることがわかり、日本の文化である空手道場を孤児院内と町の中心に開設した。空手を通して規律や礼儀を学び、地域でも評判が良い。2年に一度、招待選手としてこども達が全日本選手権に参加をしている。

上記のように日本の文化や企業の技術とフィリピンのニーズをつなぐ事で、より幅の広い活動を実施し、両方の社会にとって効果のある活動ができる。日本の地域で活動をする中で日本の良い部分を発掘しフィリピンで活かす。フィリピンでの活動を通してフィリピンの良いところを活かす。そのコーディネートも当会の役割だと考えている。

エコミスモの誕生!

当会は設立当初から孤児院の施設修復や自立支援を実施してきた。活動を続けるなかで、どうしたら孤児院入るこどもを減らせばいいのかを考え、ストリートチルドレン支援や貧困地域での就学支援等を実施するようになった。路上で働くこども達には警察からの暴力を伴った補導や、シンジケートからの勧誘、薬物への誘惑等危険が付きまとう。こども達が路上で働く理由は、親に仕事がない、仕事があっても教育を受けていないために低賃金という経済的な問題が大きい。そのため当会は貧困地域に対しての所得向上プロジェクトを実施する事にした。

事前調査を踏まえ、お菓子の袋を再利用したポーチなどの製品を通した所得向上プロジェクトを実施する事になった。より長く現地の方の安定した収入につなげるためには、安定したマーケットの確保が必要なのだが、実際には多くの団体が苦労をしている。NGOが作った手工芸品は営業力の弱さや品質の面から一般の流通にのりにくく、フェアトレード関係のイベントやその団体自体の支援者が購買者となるケースが多い。そのため、大きな売上げにはつながりにくく、NGO側の経費は助成金や寄付でまかなうという事になる。プロジェクトを安定させるためにはNGO側の経費をしっかりと確保するためにも、安定したマーケットの確保が必要だ。

これらを踏まえた上で、当会では以前から支援をして下さっている日本のIT企業の中に当会の手工芸品を販売するための一部門を開設。製品製造部門は当会が担い、販売部門は民間企業が担うという形にした。この所得向上プロジェクトは代表である私の発案で実施をしているのだが、当会で十分な資金を確保出来なかったため、全額自己出資でまかなっている。販売部門に関しては私とIT企業で出資している。その出資比率に応じて企業側とアクション側で利益配分がなされる。その部分をプロジェクトの運営費に充てていく事になる。

民間企業と提携するだけではなく、自己資金を使うことによって意思決定、責任所在の明確、プロジェクト実施のスピードが早くなる。助成金や寄付金の場合、たとえ成果が出なくてもスタッフが解雇されることも無ければ、資金を返還する必要もない。ある意味、金銭的責任とリスクを負う必要がNGOには少ない。それが今回のような手工芸品を通した所得向上プロジェクトのリスクになることもある。

このような経緯で設立され実施しているエコミスモは、様々なメディアにも取り上げられ7月からは吉祥寺の大手雑貨屋店、8月からはプランタン銀座での販売が始まる。大手企業からも1000個の注文がきた。これも販売部門を設置し、営業・広報担当が地道に営業している成果だといえる。

プロジェクトを実施しているマニラのマラボン市では50人ほどのお母さん達がエコミスモの製品を製作している。何よりも、自分達の製品が世界に出て行くことで社会との繋がりが実感できるのが嬉しいと言う。日本のお母さん達のグループとの交流プログラムも予定されている。

当会としてはお互いの国の様々な要素をつないでいく事により、お互いの地域が元気になり、それぞれが抱える課題を解決していくようなコーディネートと実践をしていきたい。肩肘張らず、自分達にできることを日本、海外問わずに誰もが自然に出来る社会。その結果として、当会の理念である「こども達の可能性を広げる」ことに少しでも近づいていきたい。




出会うこと、つながること

Child AFRICA代表
長島美紀


プロフィール
東京出身。政治学修士。専門は先進国の難民受け入れ政策、アフリカの女性問題。大学院在籍中に国連機関やNPOでインターン経験を行ったことをきっかけに、国際協力に関心を持つ。2004年度には外務省NGO専門調査員として(特活)TICAD市民社会フォーラムの事務局開設、運営を行う。2005年度より早稲田大学政治経済学部助手を務める傍ら、同団体の事務局長、理事(非常勤)として事務運営、助成金事業、アフリカ2008キャンペーンを担当。2008年8月より現職。その他、早稲田大学平山郁夫記念ボランティアセンターで客員講師として、同センターのスポーツプロジェクトなど担当している。

Child AFRICA関わりのきっかけ

*Child Africa(チャイルド・アフリカ)とは
アーティストMISIAの提唱によって、2008年8月に生まれたNGO。アフリカにおいて教育支援プロジェクトを行い、子どもの教育環境の改善やアフリカの発展を目指している。また、日本国内でアフリカの現状や取り組みを紹介することを通じて、アフリカからも学び、よりよい世界、「こうなってほしい未来」作りに携わっている。


「Child AFRICAに関わったきっかけは?」という質問をよく受けます。

Child AFRICAに関わるきっかけは、2008年5月、横浜で開催された第4回アフリカ開発会議(TICAD IV)に遡ります。その時、私は日本の対アフリカ政策に関するアドボカシー活動を行う(特活)TICAD市民社会フォーラムという団体の理事を務めていました。そして、アフリカを多くの市民に知ってもらうための「アフリカ2008キャンペーン」を担当し、アフリカエッセイコンテストや、Run for Africaなどのイベントの企画運営を行っていました。

アーティストのMISIAとの最初の出会いは、男子マラソン世界記録に挑戦するイベント「Run for Africa」にメッセージをいただいたことです。当時、イベントの成功のために全力で打ち込みながらも、広報活動やイベントの運営手法などで一般市民に広く知ってもらうための限界を感じていました。NPOの業務の一つとしての広報活動ではなく、アフリカに関心を持っていない人にも「面白いな」「参加してみたい」と思ってもらえるようなイベントや企画を、継続的に、組織的に実施できないかと模索をしていました。

この年の5月、MISIAは「Africa Benefit Live Yokohama」を横浜で行いました。そこで約3000人の観客に向けて彼女はアフリカのこと、国連ミレニアム開発目標(MDGs)を紹介しました。サハラ以南アフリカではMDGsの達成がほぼ無理で、最も打撃を受けるのが、弱い立場にある子どもたちだと訴えました。そして彼女は2008年8月にアフリカの子どもたちを支援するNGO、Child AFRICAを結成しました。私はアフリカ2008キャンペーンが終了したのを契機に、MISIAのChild AFRICAの活動に参加することを決めました。彼女の私への誘いは「アフリカで出会った子どもたちをサポートし、彼らの生きる力を伸ばせるために、私たちにできることは何か、一緒に考えてみない?」というものでした。

つながること、学ぶこと、支えること

Child AFRICAの活動の根幹は、「すべての人々が幸せになること」です。

そしてそのために、アフリカの子どもたちが生きる力を身につけるために必要な教育支援や、教育を受けるために欠かせない健康な身体作りをサポートします。

「Child AFRICAとしてどの国でどのような事業をするのですか?」とも聞かれるのですが、Child AFRICAの視線は実は日本を向いています。アフリカで出会った人のこと、子どもたちの毎日、彼らの抱える問題を日本の人にどう伝えるのか、またどのように知ってもらい、彼らに共感と理解を持ってもらえるかが、Child AFRICAの第一の使命だと考えています。

アフリカに行ったことがない人にも、アフリカに今まで関心がなかった人にも、Child AFRICAの活動を通じて知っていただき、アフリカのことを考えてもらうきっかけを提供したい、これがChild AFRICAのミッションです。

2008年度、Child AFRICAでは「Hand-to-Hand Campaign」として、ナイロビバッグMISIAのツアー会場で参加者の方に募金を呼びかけました。募金はChild-Friendly Projectとして、子どもたちが健やかに、楽しく学校に通う事が出来る環境づくりのサポートに充てられます(2008年度は日本ユニセフ協会を通じてユニセフの「子どもにやさしい学校」事業に寄付される予定)。

MISIAは2008年11月にケニアの首都ナイロビにあるアフリカ最大のスラム「キベラスラム」を訪問しました。そしてこのスラムにあるマゴソスクールで制作された「ナイロビバッグ」をChild AFRICAのウェブサイトやツアー会場で販売することを決め、多くの方に「ナイロビバッグ」購入していただくことで、キベラスラムで生活する人々のサポートを始めました。
ナイロビバッグについては、こちら

こうした活動や、Child AFRICAの活動がTVや雑誌等で紹介される中で、多くの方からメッセージをいただきました。

メッセージの多くは
「アフリカのことを知らなかったが、Child AFRICAを通じて知り、自分にも何かできないか、と思った」
「自分の周りの人に活動を紹介している」
「アフリカに関する本を読んでみました」
との心温まるものでした。

数えきれない多くの方からのメッセージは、国際協力という分野において、その前提として人と人がつながり合う、その中からサポートしようという気持ちが生まれてくることが大切なのだ、ということを改めて気付かせてくれたように思います。

私自身は難民支援を行う団体や、シンクタンク系の団体に所属していた経験がありますが、スタッフや関係者を含めて、国際協力をすることを当然視する傾向があると思います。国際協力をすること、支援を行うことが前提となっているために、「なぜ地球の裏側の人たちを助けたいのか?」という、一般の人々が持つ素朴で根本的な疑問に回答できる人は少ないように思います。

地球の裏側に位置するアフリカの人々とつながることは、物理的に、また現実的にも非常に難しいことです。

日本人の多くにとって、アフリカの人々と出会い、交流することはめったにない経験です。そうした状況の中で、単純に「アフリカを支援しよう」と言ったとしても、どれだけの人が共感し、賛同するでしょうか?

しかしそのような状況においても、アフリカの人々の暮らしや彼らの豊かな文化、伝統を紹介し続けること、そして私たちChild AFRICAとアフリカの人々の出会いを通じて、日本の人たちにアフリカに共感し、つながるきっかけを数多く作っていければと考えています。

よりよい未来のために

アフリカへの関心を持ってくれた人たちに対して、単にアフリカのことを紹介するだけではなく、彼らの生活に厳然と存在する、過酷な生活環境や貧困、保健衛生の問題などの「課題」も紹介する必要も忘れてはいけません。人々の生活は決して楽ではありません。そしてその問題を知らなければ、「なぜアフリカなのか」という問いに答える事も難しいでしょう。

Child AFRICAでは、その問題への解決策を提案することも、大切だと考えています。解決策は単純に募金や寄付というだけではありません。マゴソスクールのナイロビバッグのように、彼らの生計手段の確保も、大切な解決策の一つです。また、それだけではなく、「こうなったら良い未来」作りのために、Child AFRICAも、そしてChild AFRICAの活動に賛同する人も実際に参加できる仕組みが必要です。実際に参加することで、アフリカの人々とつながり合い、支え合い、より良い未来づくりを一緒に行えるからです。

Child AFRICAでは、今後は、これまで訪問してきたアフリカの国々の中で、自分たちが何ができるのかについて提案を続けていきたいと考えています。

リンクすること、つながること

今回執筆の前に、リンキングジャパンの毛受さんと話す機会がありました。

リンキングの考えの素晴らしさは、まずはコミュニケートすること、その相互交流の中から必要であればサポートにつながる、というスタンスにあると思います。

Child AFRICAでは、日本の人がどのようにアフリカの人々に共感を持ってもらい、彼らをサポートしよう、という「想い」を持ってもらえるか、ということに主眼が置かれています。そこでのキーワードは「つながり合うこと、学び合うこと、支え合うこと」。人と人のつながりの中から、相手への理解と思いやり、そして必要であれば「サポートしよう」という想いが生じるのだと、Child AFRICAの活動の中で私自身も強く実感しました。

国際協力分野において、これまで私たちは人と人がつながり合い、気持が動くからサポートへの強い意志と実行に至るのだ、という当たり前の事実を置き去りにしてきたのではないでしょうか。リンキングという考えが浸透する中で、国際協力に新しい風が入ることを期待したいと思います。


(一口コメント)
長島さんはたいへんバイタリティのある人です。CHILD AFRICAの活動は始まったばかりですが、MISIAという著名人と行動力あふれる長島さんの組み合わせでいままでにない新しいアフリカとのつながりが生まれそうです。長島さんと同様、MISIA自身も日本に目が向いているという話を伺いましたが、つながりこそがCHILD AFRICAの最大のテーマと言えそうです。




「セカンドハンド流」の国際協力とは?

社団法人セカンドハンド 設立者
新田恭子


プロフィール
高松市出身。自主企画・制作のラジオ番組「地球村リポート」(1992〜94年)で様々な国や地域で活動する人たちと出逢う。1994年「セカンドハンド」を設立。無報酬で活動に携わる。2007年、組織化する上で対外的な印象を変えることも必要と、理事長を退任。肩書はないが変わらず活発に活動を続けている。現在、「セカンドハンド」では5つのチャリティショップを経営し、北海道、埼玉、大阪に支部をおく。「セカンドハンド」は2000年にNPO法人化し、2009年に社団法人化した。
これまでカンボジア国家復興功労賞、2005年国際交流基金「地域交流賞(現:地球市民賞)」などを受賞。セカンドハンドの活動の傍ら、司会業のほか、香川大学、四国学院大学で非常勤講師、高松市社会教育委員などをつとめている。九州大谷短期大学国文学科演劇放送コース卒業。


チャリティーショップを日本で広げる

高松にあるNGO「セカンドハンド」では地域住民から無料提供された品物を販売し、その収益を資金源として国際協力を行っています。店舗や倉庫で働くスタッフは無報酬のボランティアの方々で地元企業もあらゆる形で活動に参画しているのが「セカンドハンド」の特徴です。とてもリンキング的だと思えるチャリティショップやセカンドハンドの活動を紹介させていただきます。

イギリスのダウンタウンで必ずといっていいほどよく目につくのが「チャリティーショップ」。その中でも最大規模のNGO、OXFAMが運営する店で偶然に買い物をしたのがチャリティショップを知るきっかけでした。チャリティショップとは不要なものを市民が無償で提供し、その売り上げを国内や途上国の支援活動に使うというもの。不用品のリユース活動は環境保全にも通じるものです。店番や値段付けなど運営の中心はボランティアたちで、さらに商品提供や買い物という点でも地域の人々をうまく巻き込んでいます。得られた利益を社会の問題解決のために充てるといったシステム全体が明確で合理的だと感銘を受けました。

「セカンドハンド」は主にカンボジアで、教育、自立、医療支援などを行っています。「セカンドハンド」を立ち上げてから現在に至るまでには、一言では語れない様々な経験、影響を与えてくれた人々との出逢いがあったことは言うまでもありません。イギリスでチャリティーショップを知ったこと以外に、1994年に日本ユネスコ協会連盟が主催する青年ワークキャンプでカンボジアを訪問したことが直接のきっかけと言えます。

怒りに近い疑問が原動力に

カンボジアで同い年の青年から、子ども時代にポル・ポト政権(1975~1979)によって強制労働を強いられたこと、そして親兄弟、友達が殺されたという境遇を聞き、「生まれた場所が違うだけで、なぜ?」と湧いた憤りに近い疑問が「セカンドハンド」につながる原動力となりました。そして現地で友達となった学生から「本がないからほしい」と頼まれたことが活動の具体的な目標となりました。

ここで、私一人で本を送る努力をして完結させていたら、今の活動はなかったでしょう。カンボジアの現状と私が出会った学生のニーズをいろいろな人に話し、協力を多くの人に求めたことで、私の周囲の人々とカンボジアとのつながりが始まりました。何かしたいという人は意外にいるもの。そういった人々の思いを活動に結びつける「場」を作ったことが、結果的に国際協力(カンボジア)と高松の市民をつなぐことになったといえるのかもしれません。つなぐために意識したのが、情報発信です。活動当初から「セカンドハンド通信」(5,500部発行)を3ヶ月に1度、協力してくださった方々に送っています。映像制作会社にも協力していただき、活動を動画で紹介することでわかりやすく伝えることにも力を注いでいます。

また、支援先の方々をカンボジアから毎年招聘し、日本とカンボジアの人々の相互理解を深める努力もしています。応援をしてくれている日本人に対してカンボジア人から直接、活動報告を行い、現地の状況を訴えるという観点も重要ですが、カンボジアの彼らに日本で、「セカンドハンド」はどのような活動の基盤を持ち、どんな人たちが支えてくれているのかを知ってもらうことも重要だと考えています。支援を受ける方にも、支えている側の顔や努力が見えることで、国際「協力」が成立しているのではないかと感じています。

国内の現場を大切に

国際協力は途上国のどこかの国に行って活動することが主として捉えられていますが、国内での市民の理解や協力なしでは現場での活動ができないのは明白です。しかし、数年前まで国際協力では国内への視点が希薄でした。また、「国際協力には教育力がある」、つまり国際協力に参加することで人間として大きく成長するという視点もまだまだ認識されていません。しかし、この効果は絶大なものがあります。

多くの学生はスタディーツアーに参加し、スラムでホームステイすることで人生観まで変わったと言います。その生活を実体験し、本来あるべきではない格差を目の当たりにします。学びたいのに学べない境遇の子どもたち、親を助けるために働く同世代の子どもたちの姿をみて、日本の学生は衝撃を受けます。それと同時に自分たちが日本で学べていることへの感謝、親への感謝の念を抱きます。日本の恵まれた環境を客観視する、つまり、当たり前だと思っていたことが実はそうではなかったと気づくこと、これは大きな学びだと言えます。その経験から自分や自分の置かれた環境を見つめ直し、新たに目標を持って学ぶようになった学生たちの姿をみてきました。

とはいえ、スタディーツアーで現地に行ける学生の数は限られています。そこで実施したのが、「カンボジアの学生の招聘事業」です。スラムから奨学金で支援している学生を招き、学校と連携し、交流事業を実施しました。

みるみる変わる日本とカンボジアの生徒

受入校ではカンボジアの学生が来る2ヶ月ほど前から授業の中でカンボジアの歴史や文化について学ぶ機会を設けていただき、当方から講師を派遣して事前学習を実施します。その後、日本の代表生徒とカンボジアの学生とのインターネットを利用したTV会議、メールのやり取りで距離を縮め、交流当日には「大切なもの」「もし100万円あったら」「幸せとは?」などのテーマでディスカッションや質問を出し合い、スラムの学生たちの背景を話してもらう時間をつくります。

この交流に関わった生徒たちは皆、「当たり前だと思っていたことが当たり前じゃない」ということに衝撃を受けると同時に、「貧しいからカンボジアの学生は幸せじゃないだろう」と思い込んでいたことに気づきます。さらに、学ぶ機会が少ないはずなのに、自分たちよりもはるかに高い英語力があるという点にも驚き、カンボジアの学生たちに対して尊敬の念を抱くようにもなります。貧しいことは劣っていることではなく、格差は構造上の問題であるということを実感として理解できるようになるのです。

一方、カンボジアの学生たちは、一般にスラムで生活している自分たちは貧しく、社会の中で歓迎されていない存在だと感じています。それが日本では皆が熱心に「自分たちに注目し、関心を持って話をきいてくれた」ことに驚き、その経験から自信を身につけて帰るようになります。

セカンドハンドには学生部もあります。中学・高校生たちの活動を成果として見せることがひとつの目的です。生徒たちがバザーや募金活動を主催し、すでにその収益でカンボジアに学校を2校舎建設しました。この成果を出すまでのプロセスに多くの学びがあります。たとえば会場を借りるために行う申請書類作成や広報、取材対応やイベントの運営、協力の呼びかけなど、参加する学生たちは多岐にわたる社会経験ができます。そのような経験を経て、苦しみながらもやりぬくことで、「やればできる」を実感することは、自信につながります。

カンボジアとの活動を通し、世界の中の問題の解決に参加することで、足元の問題をも意識するようになった学生も少なくありません。自分たちの地域の問題に気づき、それに対して自分はどう関われるかを考え始めるのです。そうした社会の問題の解決に向けて取り組める人間を育てることが重要だと考えています。その意味で、国際協力は極めて重要な「学びの場」になり得るのです。カンボジアの学生たちも、日本の学生たちの働きが刺激となっており、積極的にコミュニティー活動に参加するようになりました。

つながりと巻き込み

職業訓練プロジェクトでは、現地で建設したセンターに香川県内で集めた足踏みミシンを送りました。このミシンには「私がお嫁入り道具として持ってきたもの」などの提供者のメッセージを添えて送りました。受け取ったカンボジアの女性たちからのメッセージを提供者にフィードバックすることで、お互いにつながりを意識することができ、継続した支援や関心を持ち続けることにもつながっています。

また、救急搬送システム構築事業では、自治体から提供していただいた救急車を活用し、医師の研修の受け入れや人材派遣などで自治体と連携を図り、活動を展開しています。この事業では4団体のNGOが連携し、JICA、自治体、さらに地元企業や団体も巻き込んでいます。

先進国と途上国の間の相互理解だけでなく、実は日本国内でも成熟した社会を構築する上で、様々なアクターが理解し合う事も大切だと感じています。温度差やアプローチ方法に違いはあっても、同じ理想を持って国際社会の問題に取り組む活動を通して市民同士がお互いの特性を理解し、尊重しあうことが重要です。

リンキングジャパンに期待する

思いを持つ人や組織を、どう活動と結びつけるかという視点に立てば、あちこちにチャンスが潜在していることが見えてきます。今後、国際協力、環境、福祉など、様々な分野がリンクした活動も展開されることでしょう。つなげるためには、企業家的アイデアや柔軟な企画力、広報力を持つ、接着剤的な、いわゆるコーディネーターが必要なのだと思います。

コーディネーターとなり得る人材、つまり潜在的なセンスや能力、ネットワークを持った人たちは、まだまだ地域に埋蔵しています。そういった人たちへリンキングという可能性について情報発信を続けることが期待していることのひとつです。それと、日本にはまだまだ社会的起業家が十分に活躍できるような税制をはじめとした制度が整っていません。制度を整えるためには、社会での認識を高めることも必要だと思います。さらに国際協力に対して、すでに関心を持っている人たちだけでなく、一般市民に向けてもその活動の必要性や有効性を地道に分析、発信していくことを期待しています。


(一口コメント)
新田さんのバイタリティにはいつも脱帽する。彼女のストレートな思いと桁外れの行動力が高松を国際協力の先進地の一つにしようとしている。当初、国際協力になじみのない地元で彼女は無関心と冷笑に出会う。それにくじけずコンクリートの上に種をまいてそれを育てる努力。それを彼女は成し遂げて地域が大きく変わり始めた。(毛受)




リンキングとNGO活動〜アフガニスタン視点から〜

日本国際ボランティアセンター・アフガニスタン代表
長谷部貴俊


プロフィール
1973年福島生まれ。明治大学政治経済学部卒業。在学中は、在日外国人支援のボランティア活動に参加。East Anglia(イースト・アングリア)大学大学院農村開発修士課程修了。1999年〜2005年シャンティ国際ボランティア会で東京事務所ならびカンボジア事務所勤務。カンボジア勤務中は、ポルポト時代、内戦時代を生き抜いた多くの方を知り、戦争・紛争の問題を身近に感じる。05年6月より日本国際ボランティアセンター東京事務所アフガニスタン担当。日本アフガンNGOネットワーク調整員。2008年1月より現職を兼任。


私は現在、日本国際ボランティアセンター(JVC)という国際協力NGOのスタッフとして、アフガニスタンへの支援活動を仕事としています。リンキングの定義である「先進国と途上国のコミュニティ同士、住民同士がつながる新しいタイプの国際協力活動」に直接関っているわけではありませんが、リンキングと私自身の現在の仕事に対する根本的な考えは同じと感じています。私自身のリンキングについての考え、またJVCで行っているアフガニスタンでの活動を通じて感じたことをご紹介します。
 
リンキングはNGOを原点に戻す動きか?
 私自身がNGOに深く関わるようになったいくつかの出来事がありました。一つはまだ大学生だったころ、1991年から4年間ほど続けた在日外国人へのサポートです。大学の恩師に誘われて、東京都江戸川区にあるNPO、「コミュニティー・ユニオン」の行う日本語教室を見学する機会がありました。そこで日系ブラジル人、東南アジア、中東から出稼ぎに来ている数多くの人たちと出会いました。日本の下町の工場に外国から来た人々が数多く働いていることを知りショックでした。ほとんどの日本人が知らない下町の工場の現実を突きつけられた思いでした。

その後、このNPOとは日本語ボランティアとして関わるようになり、また外国人のための結婚や労働法律相談を行うNPOの活動にも参加するようになりました。その動機は「なにかしてあげたい」という気持ちより、「どうして彼らが日本に来たのか、どのように日本で暮らしているかと知りたい」という気持ちからでした。

そのときに多くの外国人と知り合いになり、また友人として付き合う過程で彼ら自身の身の上や暮らしぶりについて聞くようになったのです。母国で大学が出てもなかなか仕事につけず、日本に来ることになった経緯や、日本で生きていくことの困難さについても多くの話を聞きました。そしてそれを乗り越えて行く様子や絶望して自国に帰っていく姿など、さまざまな場面を立会い、彼らのその生き様から多くのことを教わりました。

その後、海外の活動にも目が向くようになり、タイでNGOの活動を視察したり、海外で国際協力について専門的に勉強した後、1999年からNGO活動に本格的にかかわるようになったのです。NGOのスタッフとして10年近く活動し、カンボジア、アフガニスタンでのプロジェクトの立案や評価、活動現場の運営を担当するようになりました。

仕事を遂行していく上で、さまざまな専門的な知識を求められることもあります。そんな時、私自身も国際協力のプロにならなければとの思いを強くすることもあります。また日本のNGOのコミュニティの中でも、NGOスタッフは専門家であるべきだ、なにか特別なスキルが必要だと考えている人もいるでしょう。もちろんそのことは重要ですが、しかし、NGOのそもそもの活動の原点は「市民として、一人の人間として、なにが他者にできるか?」であることを忘れることはできません。

日本の中心的なNGOの多くは1970年代後半、カンボジア難民がタイに押し寄せたときからスタートします。難民の状況を報道で知った多くの日本人青年が十分な知識もない中で、何かしなければならないという純粋な思いをもってタイ行きの飛行機に乗り込んだのです。それがJVCの発足の原点であり、最初はそうした意思を持った人たちの集合体に過ぎなかったのです。その意味で、リンキングの考えはNGO活動の原点に近いものであり、その素朴でありながら力強い感情や意識は忘れてはならないと思います。

JVCのアフガニスタン活動
 JVCは2001年後半からアフガニスタン東部で緊急支援のための活動を開始しました。現在もアフガニスタンで地域医療、教育支援活動を継続しています。また対テロ戦争の問題性をNGOの立場から日本政府に訴え、NATOや国連との間で人道支援の中立性を確保するために絶えず意見交換をしています。

そうした活動の中でリンキングに近いと思われる活動を紹介します。JVCのアフガニスタンでスタッフとして2002年から5年近くジャララバードに滞在していた谷山由子さんが中心となって行っていた取り組みがそうです。今は中断されていますが、それはJVCが支援したアフガニスタン東部の女子学校の生徒と日本の高校生との間で文通、絵のやり取りを行うというものでした。

谷山さんは日本とアフガニスタンを往復するたびに両者の間のメッセンジャーとなっていました。アフガニスタンの女子学生の書いた手紙を日本の生徒に渡すだけではなく、アフガニスタンの現状を生徒に説明し、その上でアフガニスタンの女生徒からのメッセージを伝えました。そうして送られた日本の学生へのメッセージの一つに「自分たちと繋がってくれていてうれしい」という言葉がありました。

われわれNGOとしてアフガニスタンの人々に対して支援を行いサービスを提供している、そのこと自体は大切なことです。しかし「日本の人が、自分たちと繋がってくれている。」という女子学生が何気なく書いた一言には大きな意味があります。文化を超えた人と人とのつながり、国を越えて人が結びつくことこそわれわれの活動の原点であり、アフガニスタンの少女も自然にそうした意識を強く持っていたからです。この一言は自分たちの活動の原点を思い出させ、私自身がはっとさせられた瞬間でした。今、現在この活動は休止していますが、また再開できればと思っています。

 アフガニスタンは今、混迷を極めています。私が初めてアフガニスタンを訪問した2005年時点でさえ、外国人は自由に外を出歩ける状態ではありませんでした。現在、アフガニスタンでは治安の悪化が進み、それに伴う外務省の渡航の制限で日本のNGOスタッフといえども現地へは短期の出張しか認められていません。私自身もアフガニスタンに長期滞在することはできず、この一年間は日本と現地を何度も往復することで現地スタッフにアドバイスを行い指示を出している状況です。日本人スタッフだけでなく、NGO活動に携わる彼らアフガニスタン人スタッフの安全策も強化しなければなりません。

現在、日本の市民がアフガニスタンを訪問するのはほぼ不可能です。しかし、アフガニスタンの人たちとのリンキングを行う可能性がないわけではありません。スカイプなどを通して市民同士がやり取りする事例がリンキングジャパンのホームページで紹介されていました。私とアフガニスタン人スタッフ間では、電話もありますが、スカイプやEメールで日々業務のやりとりをしています。いつかそのようなやり取りが日本とアフガニスタンの市民同士、学生や青少年の間に広がっていけたらと思います。そして、NGOスタッフである私自身も人のつながりというNGOの原点を忘れずいつまでも市民の一人としての自覚を持って仕事にあたりたいと思っています。




「リンキングとESD」

NPO法人えひめグローバルネットワーク代表
竹内よし子


プロフィール
1961年生まれ、愛媛出身。愛媛県立小松高等学校卒業後、企業に就職。その後、渡英、帰国後は研究機関(東京)での勤務を経て帰郷し、市民活動を開始。現在、NPO法人えひめグローバルネットワーク代表、四国NGOネットワーク代表、日本・モザンビーク市民友好協会代表、「持続可能な開発のための教育(ESD)の10年」推進会議理事、外務省委嘱NGO相談員、自治体国際協力アドバイザー、その他各種委員・講師などを務める。2007年に「国際交流基金地球市民賞」を受賞。同年松山市市民活動推進事業表彰(団体部門)も受賞。
モザンビーク支援を行うようになってから、足元の問題である放置自転車問題の解決・改善への関心も高く持つようになった。毎日、自転車で市内を走る一児の母でもある。



始まりは「なぜ?」
1998年、愛媛とグローバルな課題やテーマをネットワークでつなぐ場所・窓口として当団体が誕生するきっかけとなったのは、「国際協力入門セミナー」でコーディネーター役を務めた時だ。セミナーが終わって集まった人たちの関係がそれで終わることに疑問を感じて、「もっと勉強しませんか?」と呼びかけた一言が今に続くすべての活動の始まりだ。

この一言が自分自身の自発的な行動の第一歩となり、その後に続く10年を超える活動へとつながっている。それはちょうど阪神淡路大震災後に制定された特定非営利活動促進法(通称:NPO法)によって、さまざまな市民活動の転機を迎えた時期でもあった。

よく「何がきっかけで活動を始められたのですか?」と聞かれる。私は、勉強会などに参加して関心を持った人たちはいるのに、なぜ「知ったこと・学んだこと」を自分の行動に置き換えたり、つないだりできないのだろう?と疑問を持ったところが出発点だと思っている。そして「人のことをとやかく言う前に自分でやってみよう」と行動し、呼びかけてみたら、実は周りで賛同する人たちがいてグループになり活動が団体として発展していった、というわけである。

「勉強会」から「活動」へ
さまざまな国際協力活動の事例を勉強会で取り上げた中で、参加者の意見は「活動を継続する大切さと難しさ」、そして「途上国の人たちと上下関係を作らない形での支援のあり方」の二つにほぼ集約できた。そんな議論を繰り返す中で、NGOの発行する会報誌を通じて出会ったのがモザンビークで行われていた平和構築プロジェクトだ。このプロジェクトは、現地の人々との間である種の対等感を引き出しながら「平和な社会づくり」を目指していける好事例ではないか、と着目した。

この事業の正式な名前は聖書イザヤ書から名付けられた『「銃を鍬へ」プロジェクト』という。モザンビークの内戦後、国中に残存する武器をNGOが平和教育を行いながら回収するのだが、銃を自転車やミシンなどの生活物資と交換して生活改善を図るという平和構築活動である。このプロジェクトでは、支援する側もされる側も平和構築のために共に働き、生活改善のために対等な立場で協働することに特徴がある。しかもNGOによる「市民主導型」で政府や警察が協力しながら武器回収を行うという点で世界でも稀有な事例だった。

「これは良さそうなプロジェクトですね」と感想を述べ合っているだけでは何も始まらない。「私たちは何ができるだろう?」とできることを探し、愛媛県松山市という一地域でもできることを実践しようと話し合い、松山からモザンビークへ放置自転車を送る活動を開始したのである。そして送る放置自転車には一つひとつ市民からの日本語・ポルトガル語のメッセージがつけられ、受け取ったモザンビークの人々とのつながりが生まれる工夫を行った。

「学び+行動」から生まれる「可能性」というエネルギー
「ひとつひとつの行動の中にこそ世の中を変える可能性が生まれる」そう信じて継続することがさらなる変化につながる。「物事への健全な批判的視線を持ち合わせながら、失敗は学びに置き換えてポジティブな姿勢を保つ」そんな粘り強さが活動を継続する上で肝要だ。

私がカベに直面する時、とにかく精いっぱい考えて最善を尽くす決意を持ち、行動を起こすようにしている。そうすることで、次なる新たな可能性に出会える道が拓けるからだ。そこに発展性につながる煌く方向を見出すことができることがある。

そうなると心は「嬉しさ」で満たされる。人はこの「嬉しい」という素直な喜びを次の行動のためのエネルギーに変えていく力を持っているし、何かマグネットにくっつく瞬間のように引き寄せられる新たな出会いや出来事も起きてくる。

私たちは松山から放置自転車をモザンビークに送る活動を継続しながら、「市民レベル」の目線で国際協力活動を追い求め、2006年に「日本・モザンビーク市民友好協会」を立ち上げた。国際協力活動だけはなく文化・スポーツを交えた「友好」という心のこもった関係を育みたいと願ってのことだ。

こうした地道な活動が繰り返される中、2008年5月、横浜で開かれた「第4回アフリカ開発会議」を終えたモザンビークのゲブザ大統領が愛媛を訪問した。愛媛県を訪問する初めての国家元首を私たちが迎えることに成功したのだ。実質3週間足らずの準備期間は、今振り返ると、どの場面もさながら映画のシーンのようだった。初めて松山の市民が大統領と出会うドラマチックな接点をいくつも作り上げることができた。そして、日本とアフリカの関係を政府レベルではなく、一般の市民レベルのつながりに置き換えて考えていくことで、新たな方向性を見出す可能性=エネルギーがあると強く感じた。

小・中・高・大の学びとESD(Education for Sustainable Development)
 2002年12月、ヨハネスブルグサミットで小泉首相が提唱したことに「持続可能な開発のための教育(ESD)の10年」がある。翌年、国連で正式に採択され2005年からユネスコがリード機関となり世界中で取組みが始まった。ESD-JというESDを推進する組織が日本国内で誕生し各地でESD会議が開かれたが、2003年6月のESD会議の愛媛開催を機に、モザンビーク支援活動をESDと重ねて考えるようになった。

松山市との協働で放置自転車をモザンビークに送り、それを武器と交換するという私たちの活動は、平和・環境・人権学習や国際理解につながる。そして、地域社会に「自転車を大事にしよう」「ムダをなくしたい」「差別をなくしたい」といった意識を大きく前進させた。その活動は、さらに小・中・高校や大学で持続可能な社会づくりに必要な学びと行動の実践事例としてとりあげられるようになった。その結果、私自身もさまざまな場面で、その経験を話す機会が増え、若い世代のボランティア参加も増えている。

 ここでメディアの果たす役割も大きい。さまざまな媒体が活動を取り上げてくれることで、より広範囲の人々に情報が広がる。近くは、私の隣に住む人、遠くは、海外放送を聞いてアフリカ・ガボンからも連絡が入った。

たとえそれが子どもでも大人でも、日本人でもモザンビーク人でも、「自分が主体的に関わることが大事だ」との気づきが、聞いて触れて知ってことを個人で行う行動へと変えていく。ここに地球に住む一市民としての「当事者」意識が芽生え、多くの事象と自分をつなげて考えることができる「学び」がある。それがESDだ。そして、それが「リンキング」だ、と思う。

Think Globally, Act Locally and Change Personally!(地球規模で考え、地域で活動し、自ら変わること!)
地球環境問題は1992年リオサミットにおいて世界規模で取り上げられ、「地球規模で考え地域で活動することが大事だ」と言われ続けてきた。しかし、10年後のヨハネスブルグサミットまでに状況は悪化・深刻化していった。それは結局「ひとり一人が変わらなかったからだ」と議論になったという。当団体はこの話を聞いて「Think Globally and Act Locally! (=地球規模で考え、地域で活動すること)」というモットーに「Change Personally!(=自ら変わること)」を付加し「ひとり一人の参加、意識の変化が何より大事」とメッセージを発信している。

当団体が発足当時から意識している「活動を継続する大切さと難しさ」、そして「途上国の人たちと上下関係を作らない形での支援のあり方」という二つの課題は、今も変わらない。常にこうした草の根的活動に求められるのは、正にその名の通り、根を張る活力、粘り強さであり、根を張りながらの継続的活動でなければ、幹を育て枝葉を広げることは不可能である。

簡単に見えない根っこの部分の成長を促す人づくりに、マニュアルはない。簡易な「手法」のみを追い求めるような学びではなく、物事や問題の本質に近づく学びと、その学びのプロセスに含まれる「汗」と「喜び」を感じ取る人間性が求められているのではないかと思う。「心」や「意識」という見えない部分の関わりがなければ、継続は空虚な連続運動でしかない。

「リンキング」とESD
リンキングという言葉に初めて出会った時、何とESDのコンセプトと似ているのだろうかと驚いた。ESDは「持続可能な開発(=社会づくり)のための教育」と訳されるが、一度に意味を理解するのが難しいため「つながる教育」とも言われている。リンキングも日本語に訳すと「つながり合うこと」となり、ESDと重なるところが大きい。そのため、リンキング・ジャパンには、ESDの推進とつながりをもって広げていくことを期待したい。

たとえば、姉妹都市交流を例に挙げると、日本国内では途上国との姉妹都市交流は積極的に進められていない。たとえば日本はアフリカ54カ国中の3カ国としか姉妹都市になっていない。モザンビークでは、同国の支配国だったポルトガルのリスボンしか姉妹都市提携がないといった現状がある。

世界中が軍事と経済を中心に回りすぎた結果のひずみは明らかである。南北格差を縮め、紛争や環境問題の解決のために、市民が行動するためのツールとして「リンキング」や「ESD」の普及・啓発が求められている。姉妹都市が難しければ、姉妹校、姉妹プログラムなど、小さな単位でできることから始められるようなしくみを提案していけば良い。

当団体も小学校でも高校でモザンビークと日本の子どもたちをスカイプでつないでリアルタイムにつなぐ交流を行った経験がある。現代の技術をもって「つながり」をつくることはそう難しくはない。そして、技術的な手法に留まらない心の琴線に触れる新たなつながりで新たな可能性とエネルギーを生み出していきたい。Change is possible!(=変革は可能)である。持続可能な社会づくりのために、自然・環境、社会・文化、そして経済の新たなバランスが必要とされている。リンキングがESDとつながり出せば、世界各地へと外への広がりと地域への内なる広がりが現実化するのではないだろうか。




「技術を越えた人のつながりこそが世界を変える」

NPO法人地球市民ACTかながわ/TPAK代表
近田真知子


プロフィール
東京都の原宿育ち。広告代理店、テレビ局などに勤務の後、輸入レコード販売と店舗音楽プロデュースの会社を起業。売り上げ成績を追いかける毎日に疲れていたとき、偶然訪れたタイ・アユタヤの巨大孤児院で、わが子と同じ年代の小さな子ども達が悲惨な生活を強いられているのを見て涙が止まらなくなり、帰国して当会を設立。その後タイ、ミャンマー、インドの少数民族の村を中心に、子ども達が自分たちの力で未来を切り開けるよう、教育支援を行っている。「半径3mからの国際協力」を提唱し、日本の若者の国際ボランティア育成にも力を入れている。


有機的な南南協力
「途上地域の子ども達に簡単に育てられ、換金にもつながる農作物は?」
こんな質問に、的確な答えの出せる農業専門家は少ないのではないでしょうか?
本当に役立つ国際協力は先進国からの一方的な支援より、途上地域同士の知恵の交換では?
わたしたち、地球市民ACTかながわ/TPAKではそのように考え2005年から活動の方針を「人的南南協力」に切り替えました。これは、従来の技術や資金の供与型ではなく、途上地域同士の人を結びつけ、経験やノウハウそして友情の交換を行なう「有機的な南南協力」です。

例えば、タイ山岳民族の村で30年の経験を持つ校長先生が、教育面でさらに遅れている隣国ミャンマーの新設学校を訪問します。校長先生の長年の経験から、学校運営の方法、学校寮のルールの作り方、学校農園の野菜の種目など、生きた情報が伝授され、ミャンマーの新設校と寮は順調な船出をすることができました。

また、同じタイの中でも都市部の孤児院とその孤児院に子どもを送り出している山岳部や農村部の人をつなげることや、山奥の施設と市街地のNGOをつなげることで、新たな理解や情報を得ることができます。
これこそまさに国と国、地域と地域、施設と施設をつなげるリンキングではないでしょうか?

資金3万円から始まった
地球市民ACTかながわ/TPAKは、1991年にタイ・アユタヤの巨大孤児院を訪れた3人が、子ども達の置かれている状況のあまりの悲惨さに、何かをしなくては、と立ち上げたNGOです。国際協力のイロハも知らずに資金3万円、子ども達への愛と情熱だけで立ち上げた会です。しかし、この17年間に私たちは、世界の環境や日本の人の心がどんどん壊れていくのを目の当たりにしてきました。自分だけがよければそれでいい、他者の痛みは関係ない、そんな人が増え、心の危機、環境の危機、そして人々は生きる力を失っています。

地球上の全ての命は、つながっている。それを認識し、国を超え、海を越え、人と人とがつながっていく時、私達日本人も初めて生かされるのではないでしょうか?

憎しみの連鎖を断ち切るリンキング
タイからミャンマーに校長先生をお連れするときに、校長先生はこのようにおっしゃいました。「なぜ私がミャンマーに行かなければならないの?」実は、長い歴史の中でタイとミャンマーは戦争を繰り返し、タイはいつも敗戦、多くの寺院や旧跡がミャンマー軍によって破壊されてきたという経緯があります。タイ人は、ミャンマー人を恐れているのです。

しかしこの「人的南南協力」を行い3年間にわたって2つの国の学校同士が交流してきた結果、先生同志は、親戚のように仲良くなり、子ども達は、お互いの国の言葉で挨拶ができるようになりました。人と人とが触れ合えば憎しみの連鎖を断つことが出来る、それをこの目で見た思いがしました。

忘れ物を取り戻すために
スタディーツアーでタイの貧しい村にホームステイすれば、どんな若者でも私達日本人が大切な物を失くしかけていることに気付きます。それは、人と人とが助け合い支え合う心、どんな物でも大切にする心、質素な食事でも家族で囲む楽しい食卓・・・。日本では、高度成長と引き換えに置き去りにしてきた情緒と心の余裕です。

日本の若者、横浜の若者に一人でも多く、こんな忘れ物に気づいてもらうために、TPAKではボランティアインターン制度やトークセミナー、スタディーツアーといろいろなメニューを展開しています。一方通行でない国際協力、南と南、日本と南、友情と理解の糸が絡まりリンクし合えば、きっと明るい未来を子ども達にバトンタッチできるのだと思うのです。